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ここをご覧の皆さんは、wineを飲んだことのある方が殆どだと思います。でもワインの事を何と呼んでいるでしょう。
「葡萄酒」と呼んでいる人は少ないかもしれませんね。この「葡萄酒」、世界各国それぞれの国で呼ばれ方が違います。英語では wine(ワイン) 、フランス語だと Vin(ヴァン) 、イタリア語では Vino(ヴィーノ)、ドイツ語では wein(ヴァイン)と呼ばれています。更にスペインでは イタリアと同じく Vino(ヴィーノ) 、ポルトガルでは Vihno(ヴィーニョ)と言います。
しかし、これらの呼び方の語源は全部ラテン語の "Vinum"(ヴィヌム)から派生したものです。ラテン語で葡萄の木の事を "vitis"(ヴィティス) といいますが、それから造ったお酒というのが "Vinum" です。
さて、そのwineの起源についてお話しましょう。
人類最古の文明は既にワインを造っていたと考えられています。他のお酒と同様、例えば葡萄が自然に潰れて発酵するというような事ですね。人工的に造った証拠としては、紀元前4世紀ごろの遺跡からシュメール人によるワイン壺の封印ロールシールが発見されていますし、ダマスカス南からは搾汁器(石臼)が発掘されています。この後も、至る所でワインの存在を示す証拠が残されています。有名なハムラビ法典にはワインの取引に関する決まりが書かれていて、さらに飲みすぎてはいけませんという記述まであります。(気をつけましょう!)
また、聖書には実に521回もワインが登場しており、宗教儀式にも欠かせない物であった事を思わせます。特に重要なのは、新約聖書の場合"マタイによる福音書第26章" "ヨハネによる福音書第15章" の最後の晩餐のくだりです。ワインがキリストの契約の血であり、キリストが葡萄の木であり11人の弟子たちがその枝であると述べています。キリストが最後の晩餐でその教えの神髄を説く最高の場面でワインが登場するという事はいかにワインが重要な物であるかをうかがわせます。
こうしてエジプト、フェニキア、ギリシャで広まったワインはその歴史にとって重要なローマ時代に大きな転換期を迎えます。
古代ローマ人はローマ帝国の勢力拡大と共に各地へワインを広めていきます。特にローマ皇帝ジュリアス・シーザは紀元前58年から51年にかけてガリア(今のフランス)征服の際に葡萄栽培を全ガリアに広めました。この時のローマ帝国の支配はライン河、ドナウ河流域に及び現在のドイツのワイン生産地域の多くにもローマ帝国からワインが広められました。
ところで、現在のフランスに初めてワインが伝わったのはローマ帝国のガリア征服以前の紀元前600年頃フェニキア人が今のマルセイユを植民地にしたときです。しかし、それ以上は広がらずシーザーがガリアを征服した頃、ガリア人達は大麦ビールとはちみつ水を愛飲していました。
ガリア人はローマ人によって伝えられたワインに魅了され、優れた葡萄栽培者となりガリア地方で造られるワインはローマで大評判となりました。このため後のドミティアヌス帝はローマの葡萄栽培を保護する為、ガリアの葡萄の木の半分を抜かせる命令を出したほどです。その後プロプス帝がガリアの葡萄栽培権をガリア人に与えるなどの施策により再びガリアでのワイン造りが活気を取り戻しています。AD270年の事です。
その後、西ローマ帝国が滅亡しガリア地方は今のドイツのフランケン地方に住んでいたフランク族が移動してきてフランク王国が建設されます。
AD768年にはワイン中興の祖と言われるシャルルマーニュ大帝がフランク国王となり、今のドイツからスペインにわたる広大な領地を誇りワイン造りも大いに発展しました。
一方でキリスト教で聖餐用に用いられるワインは特にベネディクト派やシトー派の布教活動と共に各地に広がっていきます。その中でもブルゴーニュ地方はシトー派の修道院によって多くの葡萄畑が開墾されブルゴーニュ公国の繁栄とともにその名声も高まっていきます。
1137年には、また一つ重大な出来事が起こりました。アキテーヌ公領のエリオノール妃がフランス王ルイ7世から離婚され、アンジュ伯でノルマンディ侯であったアンリ・プランタジェネと再婚します。この時アキテーヌ地方を持参金としますが、アンリ・プランタジェネがその2年後イギリス国王になったため、今のボルドー地方を含むフランスの南西部が英国領になってしまったのです。この状態は100年戦争の終結(1453年)まで続きますが、その間ボルドーのワインは「クラレット」という呼び名でイギリス人に楽しまれていました。
1789年には有名なフランス革命が起こります。王侯貴族の料理人やサービス係は町に出ることを余儀なくされ、この結果、良質のワインも庶民の口に入るようになりました。この時にそれまで王侯貴族のワインのサービスを行っていた人達が町に出て、当時誕生しつつあったレストランで働くようになりソムリエが誕生したと言われています。
一方、各地の葡萄畑はそれまで小作人であった農民に分配されました。このため葡萄畑が小さく分割されることになったのですが、この後、資本力のある家がそれらの葡萄畑を再び買上げ大きな単位にまとめたのがボルドー地方であり、小作人に分配され更にその子孫に受け継がれ、場合によっては更に小さな単位に分割されたのがブルゴーニュ地方です。
現在のボルドーのシャトーが大規模な葡萄畑を持ち安定した品質のワインを出荷するのに対し、ブルゴーニュはドメーヌという農家単位でそれぞれのワインを製造・出荷し同じ村でも味わいの違うワインが製造されたりするため、畑の単位で格付けがなされているという違いは主にこのフランス革命以降の経緯によるものです。
そして1855年フランス万国博覧会が開催されました。この時に現在までも続いているメドック格付けが誕生しました。ブルゴーニュと並ぶ上質ワインの生産地ボルドーの中から優れた58シャトー(現在は61)がボルドー仲買人組合によってリストアップされボルドー商工会議所が万博事務局に送り公けになったものです。
この格付けはメドックの場合5つに分類され1級から5級のシャトーが等級付けされています。甘口ワインのソーテルヌは特1級、1級、2級に分類されました。この時、メドック1級に格付けされたワインは
・シャトー ラフィット・ロートシルト
・シャトー ラトゥール
・シャトー マルゴー
の3つのメドック地区のシャトーとグラーブ地区から
・シャトー オー・ブリオン
の4つが選ばれました。毎年、有名な画家によるラベルが使われる有名な
・シャトー ムートン・ロートシルト
は、この時2級に格付けされており、後に1973年に唯一の例外として格付けの変更(1級への昇格)が成されています。
そして、万博の9年後(8年後という説もある)1864年に大変な事件が起きます。
「葡萄について」の節で詳しく説明しますが、この時期ヨーロッパで栽培されていた葡萄はヴィティス・ヴィニフェラという中央アジアに原産する種類のものでした。これはワイン用に適した品種なのですが、当時の葡萄栽培者は研究熱心で、新大陸(アメリカ大陸)に自生する新たな品種の葡萄を研究用に輸入したのです。現在、他の国から動植物を輸入する際に検疫という作業が必ず行われますが、当時はそうゆう知識もあまりなく新大陸の新葡萄品種と一緒にそれについていた葡萄の害虫フィロキセラを一緒に輸入してしまいます。
ヨーロッパにはこの害虫は全く居なかったため、葡萄の木には免疫がなく、あっという間に全フランス、ヨーロッパに広がってしまいます。このフィロキセラという害虫は日本語では「ぶどう根アブラムシ」といい、その名の如くワイン用の葡萄の木の根についてやがて葡萄の木を枯らしてしまいます。このため、ヨーロッパのワインは壊滅的な打撃を受けます。
アメリカ原産の葡萄は折角輸入してみたものの結局ワインには向かない葡萄だったため、当時は害虫のフィロキセラを輸入しただけという結果に終ってしまいます。
一方、アメリカではカリフォルニアワインの父と讃えられるアゴストン・ハラジーがヨーロッパ品種の葡萄をカリフォルニアで栽培しワイン生産を広めていました。そして皮肉なことにアメリカ原産のフィロキセラは同じアメリカ大陸ではなくヨーロッパを経由してカリフォルニアにやって来ます。そして、ここでも壊滅的な打撃を被ります。またフランスでフィロキセラで壊滅状態になったボルドーの造り手達が隣国スペインのリオハ地方に移り住み、かの地で優秀なワインを生み出すなどの影響もありました。
さて、このフィロキセラ、結局はこの害虫に対し抵抗力のあるアメリカ原産葡萄の一部(ヴィティス・リパリアなど)にヨーロッパのワイン向き葡萄品種(ヴィティス・ヴィニフェラ)の枝を接ぎ木する事により解決します。以後、現在に至るまで世界中のワイン用葡萄はこの方法で栽培されています。
(注.チリとオーストラリアには自根栽培の葡萄が成育しています。また砂地の畑では線虫の移動するだけの間隔が粒と粒の間にないという理由から南仏の海岸地域などでも自根で栽培可能なところがあります)
また、このフィロキセラの被害に前後して、フィロキセラと共に葡萄の三大疫病と言われるうどんこ病、ベトカビ病が発生しワイン生産は壊滅的な状態となり、まがいもののワインや品質の悪いワインが横行しワイン全体の信頼が失墜してしまいます。このためフランス政府は1906年に生産地名の不当表示取り締まりの法律を制定しますが、これが現在まで続く1935年制定の原産地呼称統制法の元となっています。
同様の法律はその後ドイツ(1892年)、イタリア(1924年)、スペイン(1970)、ポルトガル(1951)などでも制定され、さらにそれらを統合する形でECワイン法(施行1971)が制定され、各国のワイン法もこれにならう方向にあります。